三八豪雪について

                        記: yabu-koita

この冬は久々の大雪であった。三八豪雪の西中国山地における爪痕などについて考えてみた。

 

1)平成18年豪雪について。

 あたたかい秋が長引き11月末まで紅葉が楽しめたが、カレンダーをめくり12月になると一転して猛烈な雪に見舞われた。1月になっても積雪は続き、最深積雪は青森市酸ヶ湯で453cm2/13)、新潟県中魚沼郡津南で416cmを記録した。

 気象庁は31日に今冬の記録的大雪を「平成18年豪雪」と命名した。

http://www.jma.go.jp/jma/press/0603/01a/18gousetu.html

過去、大雪に名前がついたのは1963年の「昭和38年1月豪雪」だけ。気象庁は命名を検討する理由として、過去の災害と違い、雪下ろし中の高齢者の被害者が多いことや、12月の低温記録更新、積雪の最大値の更新地点が全国の23地点に及ぶことなどを挙げている。今冬の大雪による死者数が134人と戦後2番目の多さとなり、過去に被害が多かったのは1963年の死者228人・行方不明3人、80−81年の死者133人・行方不明19人など。

 山口県でも12月の積雪が多く、中国道が一週間近く通行止めになった。

 

2)三八豪雪について

 昭和三十八年は東京オリンピックの前年であるが、この年の一月に日本海・北陸地方を中心各地に被害をもたらした大雪を三八豪雪と呼んでいる。予報では、全国的に冬の気温は平年並みとの予報が出されていたのは、今季と同様。福井市では111日から降雪が続き、15日猛吹雪になり、積雪1m近くに達したがそれは序の口で大寒の21日から終日気温零度以下で、131日勝山市で積雪325cm。三八豪雪のピークは120日ごろから210日くらいまで。雪の重みは、積雪1m1m2あたり約300kgになり、温度の上昇につれて水分を含むとさらに重くなる。

3)過去の大雪の記録。

 日降雪量と最深積雪の日本記録(自然災害科学,2003年より)

日降雪量

1、富山県上新川郡大山町真川 1947.2.28. 180cm

2、新潟県上越市大手町    1927.2.9  176cm

(山岳地帯:伊吹山 1975.1.14. 230cm

 

最深積雪量

1、富山県上新川郡大山町真川 1947.2.26. 750cm

2、長野県北安曇郡小谷村中土 1927.2.13 742cm

(山岳地帯:伊吹山 1927.2.14. 1,182cm)

 

4)西中国山地。

1)匹見町 (『郷土スライド解説書』より)

http://www.shimanet.ed.jp/sekisei/sekisei-J.htm

 1.1) 広見の廃屋

 「匹見町は過疎の町として知られているが、過疎が進行しているのは匹見町周辺部の交通不便な山間僻地に限られる。特にこの広見は匹見町中心部より東へ十数キロ山間部に入ったところにある集落で、冬の数ヶ月は雪に閉ざされる。昭和三十八年、中国地方一帯は近年まれにみる豪雪に襲われ、この広見は交通が三ヶ月間遮断されて完全に孤立し、陸の孤島と化した。この豪雪を契機として離村者が激増し、町もまた集団移転を積極的に勧めたため、住民はすべて匹見・益田・広島へ移転し、広見は廃村となった。」

 

1.2)広見小学校

 「戦前木材の伐採が盛んに行われていた頃、八十名を越す児童を抱えたことも在ったこの広見小学校も、広見集落の集団移転と共に姿を消すことになった。町植林事業のための事業所として使用されている。ちなみに匹見町小中学校生徒数の推移を見ると、昭和36年に1600人いた生徒も、以後激減して昭和49年には500人と約1/3に減っている。また昭和46年に12校あった小学校も統廃合が進み、昭和49年には6校に減った。」

 小谷橋を渡った半四郎山登山口の奥に甲佐屋敷跡がまだ残っている。ハゲノ谷入口には土台のコンクリがある。国道488号から校舎跡が見えたので、入ってみた。教室・炊事場・二段ベッドの寝床・割れた窓ガラスなどがあり、狭い校庭とおぼしき草が茂った広場には桜がひっそりと咲いていた。

 

1.3)三葛のつむぎ峡

 地元の人の話では、谷の奥までワサビを栽培していたが、ここも豪雪やその後の台風で崩れたとのことである。同様の事例は他所でも聞いた。

 

  

1)広見小学校校舎跡       2)校舎内の寝床(二段ベッド)

 

  

3)広見林道「中の本家」碑   4)三葛つむぎ谷上流のワサビ小屋跡

 

2)六日市町鹿足河内地区

 六日市町は柿木村と昨年合併し現在は吉賀町となっている。鹿足河内林道を奥まで進むと築山の登山口があるが、その手前に神社(河内大明神、那智社)と集落跡がある。畑仕事をしていた団塊の世代の男性と立話をした。「三八豪雪当時は小学生だったが、豪雪になる前から雪に備えて六日市町内で寄宿していた。集落は雪で約一ヶ月埋もれ、その後離村した。」そうだ。東京芸術大学七代目学長で彫刻家の澄川 喜一氏(1931(昭和6)年生、岩国工業高等学校卒、代表作:連作「そりのあるかたち」)の生家も近くにあったとのこと。そういえば、集落跡で見た澄川家の墓には新しい花が飾ってあった。

  

5)鹿足河内集落跡(一部)     6)河内大明神

 

 このように西中国山地を歩けば方々で台風・豪雨や豪雪の跡が残っているのに気付く。また過疎で廃棄された民家も数多い。その一方で山を切り開いて新たに林道も造られている。もの言わぬ山や谷にも、人の営みの跡や自然災害の痕跡が残っている。

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